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タイ

作成年月日:2016年7月

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タイ国情報 2016年6月

2016年6月に出会った日系企業の取材を中心にタイの労働関係、労使関係および中国やカンボジアでのものづくりの課題を紹介します。

1. タイでの工場改善提案と設備維持サービス

2. 中国での委託加工から、タイでの自社生産に踏み切る日系企業の動き

3. 1990年代にタイ進出した企業の従業員の育成過程と今後の課題

4. 日系企業内でのタイ人の役割、日本人の役割について

5. タイでのものづくり、カンボジアでのものづくり(文化の違いを理解するか)

6. (付録)Brxit (英国のEU離脱)と労働者の移動をアセアンで考えると

1.タイでの工場改善提案と設備維持サービス

O社は関東圏にある地方都市では老舗企業として、社長は地元経済界の顔とも言える役割を果たしている。海外進出もすでに中国上海に拠点を置き、日系企業を中心に工場の改善提案や、機器導入、また設備の維持管理サービスも行ってきた。

アセアン進出は同業他社より遅れ、2014年に紹介されたタイの日系企業に2015年から社員を出向という形で出してO社のタイでのビジネスの可能性を探ってきた。

1年間の駐在を経験した社員から本社に、日本で同社が事業の中心になっている機電サービス、具体的には工場の改善提案や、機器導入、また設備の維持管理サービスを行うべきだとの提案がされた。しかし、いざ、現地でそのようなサービスを行う人材がいない。

当面は、日本の本社から営業と技術者のペアで活動をする予定である。

そこで、課題は、様々な工場の現場の経験を踏まえ工場の改善提案が行える現地人をどのように育成、教育するのか、である。

現在、経済産業省の傘下にあるHIDA(海外産業人材育成協会)のスキームにあるタイ人向けの受け入れ研修、日本の専門家派遣を活用できないか、と考えているが、政府予算のため、各種制約があって、実際に利用はできていない。

自前で、タイ人を育成するとしても指導者となる日本人が足りないのが現状である。

従い、海外進出で日本のノウハウを現地に植え付けるには数年から10年近い計画を立てて考えるべきではないか、との意見が出ている。

かつて、OVTAが実施してきた専門家派遣が可能なら利用したかった、とのことである。

一方、北陸で工作機械商社として活躍してきたS社は、顧客のメーカーおよび利用者である自動車部品や電機部品の加工工場がタイやアセアンに進出することから、十数年前から輸出に重点を置き、一時は国内売り上げよりも輸出の比率が高かった時期もあった。しかし、顧客から機械納入後のメンテナンス、保守契約の要請が多かった関係でタイに現地法人を設立。国内の売り上げは減少したが、タイへの輸出とタイでのメンテナンス事業でバランスをとっているのである。現地法人の将来の幹部となる人材を日本の本社に送り、各工作機械メーカーの視察と各社で研修をしていただき先日、タイに戻ったところである。

同社では、HIDAなどが製造業中心のタイ人受け入れ研修とは目的が異なるため自前で、機械メーカーの協力体制を構築してきた。このような中小企業といえども自前で、タイ人の幹部を育成する意欲のある会社もある。

(写真:K社工場の現場 )

2.中国での委託加工から、タイでの自社生産に踏み切る日系企業の動き

G社は、国内の安全グッズの一種では市場シェアの高いファブレス企業である。ゲーム機器、飲料、電子部品メーカの多くはファブレスとして成長をしたため、同社のビジネス形体もそれなりの成長を遂げてきた。

従来は、日本で製品の企画設計や開発は行うが、製品製造のための自社工場は所有せず、製造自体は中国のEMSに全てを委託し、製品はOEM供給を受ける形で調達し、自社ブランドの製品として販売してきた。ファブレスの形態でも自社倉庫に修理工場を所有しているが、この場合は修理工場としての機能に特化して、部品は委託先から調達して、製造機能を持っているとは言えない。

ところが、最近の製品のクレーム対応で、中国の委託加工先の現場に本社の品質管理部門が訪問しても、実際の現場を案内してもらえず、ものづくりの実態が見えない、という問題が出てきた。委託加工先の責任者からは、善処して、不良品を出さないように努力するとの回答を得ても実際にどのように改善、改良してのか、不明なまま。

そこで、従来の工場を持たないメーカー(ファブレスメーカー)から自社工場を持つ製造業に変身する必要があった。このため、同社がとった方法は、製造業で海外生産を経験した人材をスカウトするという方法である。

スカウトされたW専門家に取材したところ、工場建設から実際の運営まで任されるのであるが、本社のどの部門にも製造の経験者がいないため、ものづくりの一から説明をしないと納得してもらえず、資金面、人材面での応援体制を作る苦労がある。

たまたま、タイでは製造業の裾野産業がある程度育ってきたため、初めての工場建設でも不安がないが、本社とのコミュニケ―ションにはまだまだ苦労が続くとみている。 幸い、現在の日本の社長は製造部門の重要さに理解を示し、新工場建設には思い切った予算を現地の責任者に与えているため、近く工場の建築着工に踏み切る段階だと、説明された。

例えば、同社の製品の一部を供給したいと希望する地場企業のW社を視察した。オーナーは一時、日系の自動車メーカーに勤務した経験があることから、工場のレイアウト、仕事の進め方も日本式を導入。5Sなども実践をしてきた。自前で金型からプラステイック・インジェクション、組み立てまで一貫して行う小さな工場からスタートした。25年経過して、現在は第3工場を持つまでに成長。現在は、直接納入ではないが、日系自動車、欧米系自動車メーカーに同社の自動車部品が納入されている。上記のG社が現地調達の比率を高める意向があれば供給したいと、提案する準備をしている。

G社が、タイでの工場建設を決めた背景には現地での部品メーカーの技術水準が高く、日本的経営にも慣れた企業が多いことからである。同社のタイでの調達比率が予想以上に高くなると思われる。

 

 

(写真は、日系のマネジメントを進めるタイの自動車部品会社)

 

3.1990年代にタイ進出した企業の従業員の育成過程と今後の課題

T社は、日系企業が集中してタイに進出した1990年代の後半に進出した。当初は、納入先のH社の紹介でパートナーとなったタイ人の紹介で、納入先の工場に近い場所で工場団地を探したが、あまりにも日系企業の進出が多く、当時としては工場団地内の土地代が予定よりも高額で、バンコク郊外で選定するのをやめた。改めて、出張ベースでタイに来て、地方を回ることにした。

日本でも地方に本社を構えて、本社工場から山が見え、また海にも近い場所がないか、探したが、2つを満足させてくれる場所がなかった。

たまたま、チェンマイに飛行機から降りると、日本の工場に近い景観があった。そこで、近郊を探したところランプーン工業団地に1区画が開いていた。

しかし、団地オーナーはライバル企業のパートナーで、ライバル会社に納める部品企業には土地を分譲しない、という。そこで、いったん、タイ人パートナーが買い取り、土地の名義を変えたところでT 社が買い取ることになった。当初20ライ(1ライは40mx40m=1600u)の土地で、あまりにも大きすぎるとして、半分近くを隣の工場に売却した。

当初は10ライの土地の半分で工場を建設。従業員はチェンマイ周辺で募集し、最初の採用した人材は、工場建設期間、日本で数か月の研修を積ませた。工場が引き渡されて、機械も日本と同じであれば追加して採用した社員には日本で研修したタイ人が指導する、という体制である。責任者の選定では、役員を派遣する予定であったが、社内で人選したところ希望者としてK氏の名前が挙がったため、失敗しても良い、という条件で派遣を決定。

タイのサプライヤーも決まらず、治具や制服、従業員の規則もない状態から、従業員の採用、治具の設計製作、サプライヤーを決め1995年に工場を操業を開始した。

しかし、時の運が悪く、1997年の通貨危機に直面。当初の納入先の生産計画では年間数十万台の納入を予定し、機械設備、従業員の採用をしたものの、経済危機後は納入数量は当初の1/5程度に落ち込んだ。

そのため、K工場責任者が本社へ月次報告では、赤字が続出し、5年間の在籍中、赤字が累積した。責任を取らされた形で、日本に戻ったK工場長は、定年まで勤務して退職。 後任の工場長は、同社のエースで、役員クラスであった。また、タイ経済も2000年代から回復し、H社の生産台数も増加したことから、数年で累積赤字も解消。隣に売却した土地も売らなかった方がよかった、という状態までになった。社員も、たまたま苦しい時代にも解雇せず、継続して雇用をしたため、創業当初からの社員が継続して勤務。このため、納入先からの品質に関する信頼が厚く、H社以外にも取引先が拡大をしている。

元工場長のK氏も、同社を退職後、タイの他の製造業に勤務ののち、独立開業し、現在は工具販売を営んで、元の工場に訪問すると、工場長時代に採用した古い社員が歓迎をしてくれる。古い社員が多いため、従来のものづくり、品質維持には問題がないが、改革、工場のラインを大幅に入れ替えるなどの取り組みが難しい。

納入先のH社からは、現地設計、現地生産の比率を高めるため、試作品の製作の依頼もあるが、残念ながら、試作品など創造的なモノづくりには、いたっていない。K氏は創造的なモノづくり、従来にとらわれないモノづくりができるように同社の社員を教育するには従来の古参の社員が退職する数年後になるとみている。

(写真は、同社の納入先H社のあたらしい工場)

4.日系企業内でのタイ人の役割、日本人の役割について(タイ人による経営に移る過程)

I社は、1960年代の初期に日系自動車会社が輸入販売から現地生産に踏み切った。東京でいうと、川崎に当たる位置と言えばわかりやすいが、バンコクの南東の位置に隣接するサムットプラカン県に工場がある。

当初は、日本からの責任者が現場のリーダーでものづくりをしてきたが、社員研修、語学研修を重ねて、現場の作業はタイ人で稼働ができる。本社機能でも、人事、経理などタイ人が主体になる部門と、調達部でもタイ企業や日系企業の古くから付き合う納入先とはタイ人が日常的な交信ができている。

経営幹部もタイ人の役員も登用され、各ラインの責任者も多くはタイ人が担当。 ただし、製品開発、研究開発および新規納入先の検討で主に日系企業との接点は日本人がまだ本社の日本から出向という形である。

調達部門で数年前に採用されたT氏にタイ人と日本人の役割の違いを取材。

「日本人で、調達責任者の機能としては、経験があり、材料や品質の見極めができる人材が必要である。タイ人でもかなり担当できるが、新しい部品や部材に関してはなかなか判断が難しい。やはり、日本での経験がないと難しい」

「タイ人が調達部門の責任者になるには、評価できる機器をそろえ、客観的な判断ができる人材に育てる必要がある」

「現在は、インド展開も実行中で、現地企業に出資する形をとるため、経営管理はインド人が主役になる」とのことである。

ちなみに、T氏はラインの責任者とならず、アドバイザーとして機能をしている。

I社以外にも、同業のT社でも、日本人がタイ人のライン責任者の横にいるコーデイネーターとしての役割で、タイ人から相談があれば助言するという形をとっている。

実質は、日本人で回している部分もあるが、タイ人のやる気を引き出し、タイ人によるマネジメントに移る過程だといえる。ただし、日系企業で、タイ人に全て任せる体制まで持って行けるには多くのステップを踏む必要がある。

同じく、同業のH社では、CEOは日本人がなっているが、COOはタイ人がかじ取りをする時代になった。同社では、海外の子会社の責任者は順次、現地採用の現地人が運営するようになってきた。

100年企業となった重電の欧米系ABB社は幹部はタイ人。エンジニアはインド人など、今後は国籍を問わず、優秀な人材はグローバルで人事配置する時代になっている。日系大手企業も海外の子会社は現地の経営幹部が管理運営し、今後の世界展開では、国際的な人事異動が当たり前になるのであろうか。

 

(写真は、I社ロビー)

5.タイでのものづくり、カンボジアでのものづくり (文化の違いを理解するか)

タイ生活20数年のW氏は現在、カンボジアにある日系T子会社の責任者である。現地では、タイから受け入れた生地を裁断して、縫製し、欧米に輸出するのであるが、ワーカーの勤労意欲をどのように引き出すか、腐心をされている。

タイの熟練縫製工を指導者としてカンボジアのワーカーを指導するが、どうしても生産性が上がらない。数量を上げようとすると、品質が一定しないという。

その背景として考えらえる要因は、過去10年間で経済成長とともにベトナム、タイから縫製工場がカンボジアに多数進出して就労機会が増えた。また、カンボジア政府も毎年のように最低賃金の引き上げを行い、T 社が当初想定した賃金の上昇率を上回る引き上げが政府の指導によってなされたこと。生産性の向上によらないでも、労働者の賃金が上がれば、努力をする意欲がそがれるのである。

また、1970年代のポルポト政権時代に極端な共産主義に走ったことから、知識層、学識者は農村に移され、厳しい労働環境から数百万人もの死者が出た暗黒の時代があり、その後の内戦もあって教育事情が厳しいものがあった。このため、現在の工場で働くカンボジア人の識字率も低く、またポルポト時代の密告社会からより個人主義がはびこり、集団で生産性を上げるという考えが少ないのではないか、とみている。

そうはいっても手をこまねくわけにはいかないことから、現地パートナーの協力も得て、職場のリーダー層を中心に、再教育を行うことになった。毎月数回、現地人パートナーの役員が、現地人のリーダークラスに、会社と何か、労使協調、生産性向上など企業と労働者の役割を教え込んで、生産性向上によってのみ給与水準、福利厚生が上がるのであると指導をしているのである。

これらの点は、タイでは学校教育で指導されてきた内容でもあるが、カンボジアでは、外部の扇動者によって、容易に労働争議が起こるのは、労使関係が浮薄であること、労働環境が厳しいことなどもある。

T社では、工場内は空調管理も行い、作業環境が他の縫製工場よりも優れ、工場内の食堂も、給食業者に委託しているが、光熱費は会社負担のため、低価格で食事がとれるようになっている。

W氏も、現地駐在3年目を迎え、タイ人との違いが理解したうえで、次なる生産性向上に向けた対策を講ずるという。

工場管理の前提に、現地の歴史的、文化的な背景を伺う必要があるのは、このような事情からである。

 

(写真は、T社のカンボジア工場 )

 

6.(付録) Brxit (英国のEU離脱)と労働者の移動をアセアンで考えると

6/23に英国の国民投票でEU離脱が決まった。その背景を解説したいくつかの資料を見ると、EU結成当初の現加盟国と、遅れて参加した英国の思惑の違いがある。ドイツやフランスが第1次、第2次世界大戦の戦場になったことから,EU結成の未来像は平和を志向する、という理念がある。ところが、英国が加盟した背景には大きな経済圏に参画したいという経済的な希望と、最近はシリア難民の受け入れなど、EUとしての加盟国に求められる義務が、経済的なメリットを上回ることへの不満が爆発したと考えるべきであろう。EUに加盟して何らかの恩恵を被らない高齢者、地方都市の離脱派が多かったわけである。一方、都市部や若年層にとっては、EUに加盟していることから就業の機会が増え、経済的にも大きな市場があることでのメリットが身近に感じられたと思われる。

一方、EUをモデルとしてアセアン経済圏、アセアン経済共同体AECを結成したが、ヒト、モノ、カネの移動が自由化するという理念はあっても、人の移動に関しては8つの専門職種以外は、いまだ加盟国の同意が難しいという現状がある。

6月20-23日にミャンマーの国家顧問兼外務大臣のスーチー女史がタイを公式訪問し、プラユット首相ともいくつかの覚書を結んだ。同時に、ミャンマーからの労働者の多いサムットサコン県マハチャイ市でミャンマー人を対象に講演をされた。タイとミャンマー国境での難民の帰国問題など、ヒトの移動に関する過去数十年間の解決されていない問題を抜きに、理念だけでは人の移動問題が議論できない。この点はEUでのシリア難民の受け入れとも共通するが、受け入れ国にとっては当初は経済的な負担が大きく、加盟国にもそれなりの負担が乗りかかるのである。

タイが民族紛争で逃げ込んだミャンマーの難民を受け入れた背景には、反政府軍を支援した時代的な背景もある。これらのいくつかの歴史的な背景の理解を抜きに、現象面だけで労働者の移動の自由化について議論すると、隠れた本質が見えない恐れもあるのである。

(写真は、マハチャイ市)

(以上)